裂開

風景は二重なうえに、過去、現在、未来の三つ声が同時に聞こえてくる始末で破裂しそうになっている。順番に一つずつで、追いつくまで待って、はことごとく無視される。種子、卵、果実のように、

「僕らは砕かれたときに最良のものをだす」

と友人が話していたが、人間の場合はどうなのだろう。ひらめきや霊感のたぐいが溢れだすならば願ってもないが、一歩 ちがえば、血や魂なのでは。

現実との境界

山の後ろから日が昇りはじめ、部屋や庭木が色づいたり輪郭の影を帯びたりするのは視覚的に賑やかさを感じる反面、鳥の小さなさえずりなどを耳にし、やっぱり静かだよな、と改めて胸を撫でおろす朝にーーこちらでは、影はどこに、私たちや幽霊、落ちた鳥がどんなに照らされたところで、いつまでも実体には、と黙ってざわめくのだ。

夢とは別の、現実の夢たち

それでも、私やあなた、ミツバチの羽音、椿の紅色、梅花の香り、を夢としてしまうには傲慢だ。とっくに私の手では編み出せなかった生き物たちで溢れているのに。だって、胸を叩けば赤くなるでしょう、花の首をはねるような青白い手でも。

 

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空も、ひとつも、寝顔も、折りたたんだ地平を開いて、失明する光で引き裂きなさい、と過去へ話した。

 

 

未体験を語る

体験していないことを物語ってはいけないと、それは虚言だと指をさすなら、「最近、阿吽の仁王が夢に現れた。」と我々は夢さえ話すのも禁じられたろう。

 

猫の日なので、せっかくだから猫の寓話でも書こうかと座椅子でドーナッツ型に丸まった飼い猫を横に、来い、猫、猫、と脳内で唱えながら頭を絞っていると、

「そういえば、三本脚のカラスと三本脚のイヌならどちらが良かったのだっけ、最初から何かが増えて備わっているよりも、元々あったもの減ったほうが爪弾かれやすいのでは、千手観音や八咫烏は神聖化もされるけど、一本足の一本ダタラや一つ目は鬼や妖怪にされるじゃん、あ、でも、目 や口がいっぱいあっても怖いか、手足に限定して考えたほうがいいのかな。」

なんて考えていた頃の記憶が出てきたのだった。

具体的な植物たちの名は

辺りを見回しても山、森、木、でしかなった。固有名詞を失った私の認知は抽象的なのだが、数年前のように描写や名前で外側の線を付け足してつけたして、現実に触れたり寄せたりしなくても焦らずにいられるのは、その良し悪しは別にしても強迫から多少抜け出せたふうにも思える。

 

(試文:正午、メジロが真っ直ぐな縦枝に二本足でつかまり、旗のように止まっていたのだけれど、緑の、緑の、と話す色を探してみても鶯色の若葉が生えた枝ばかりで、すぐに何処にいるのか私は気づけなかった。)